その日は朝から大雨だった。
雨は午後になっても止まず、夕方には汽車も不通になるほど降り続き、日付が変わる頃から更に激しさを増し、バケツをひっくりかえしたかのように降った。
夜半に「赤川が決壊したぞ。」と消防団の声がしてから数分後、バリバリと木の裂ける音と共にズドンと言う地響きがした。
音がした方へ乾電池ライトを向けると、私の家は斜めに傾いていた。
家族は全員外にいたため助かった。夜が明けると赤川は氾濫し、山はいたるところで崩れており無残な姿をさらしていた。
数日後、死者、行方不明者などが多数でた大きな災害であったと聞いた。
町役場の係の人から私の家は全壊していると言われ、家には入れず近所の離れ間を借りて寝起きした。
炊き出しの食事が数日間続いた。全国からの支援物資が届き、自衛隊や大勢の方々の援助を受けた。
そんなこともあって母は「お金がない。」が口癖だった。
ある時、母が兄(眞)に「憲(私)、学校辞めさせるか。」と言い、兄(眞)が「せっかく行きとるのに。」とのやりとりをしているのを聞いた。
その会話を聞いたとき、私はこれ以上学校に通うのは無理だと思った。
夏休みも半分過ぎた頃から土木作業のアルバイトを始めた。
アルバイトをしながら“お金が貰えれば学校に通える”と思いながら励んだ。
私は夏休み、冬休み、祝祭日等を利用してアルバイトをすることにした。
時には試験の最中の休みでもアルバイトをした。
学費として最低でも1500円を稼がなければならなかった。
しかし、全日制の学校ではアルバイトをする為には学校の許可が必要だった。
事情を学級担任に話し許可を得た。
その上、島根県から山陰豪雨被災者には授業料免除の制度の話もあり、学費900円を納めれば学校にも通えるようになった。
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