ボランティア活動
雲南市空缶積上げ大会
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人生録 H.19.12.9
着いたのは10時前だった。
事前にお願いしてあったボランティアの方は柏崎市役所の職員の方53名、柏崎産業大学から5名、上越教育大学から7名のボランティアの方と私を入れて65名での活動であった。
今回の活動に多くの皆さんが参加していただき感激した。
市役所の駐車場に入ると大勢の姿が見えた。
迎えに出ていただいた方があまりにも多く場所を間違えたかのようだった。
復興支援室の政金係長に会って挨拶をして、そして全員皆さんに挨拶をした。
盛大な拍手をいただいた。
ボランティアの方々と事前に場所と個数等の打ち合わせがしてあったのでその確認作業に入った。
確認が終わり数班に分かれて駐車場を後にして活動に向かった。
私の班は私と学生全員の13名で編成され活動に入った。
規模の大きい3カ所の応急仮設住宅の活動を行ったが、機敏さ、行動力にかけては2校の学生はすばらしく優れていた。
そのお陰で計画通りに進み、14時頃には全てが終わった。
仮設住宅の皆さんにケーキを贈って喜んでいただき、そして始めて会った大勢の方に厚意で協力をしていただき私は来て良かったと一層の感激を味わった。
柏崎市役所に帰り今回の企画と活動に協力していただいた政金係長と大塚係長方々、そして学生たちにお礼を述べ、その足で直ぐに長岡市山古志応急仮設住宅へと向かった。
途中、蓮池薫さんの里へサンタクロースの姿でショートケーキを持ってお邪魔した。
薫さんのお父さんとお母さんに会った。
いきなりだったのでびっくりされたが、サンタクロースの帽子とあごひげ取ったとき私だと分かっていただいた。
山古志応急仮設住宅へ着いたのは16時過ぎだった。
少し薄暗くなっていた。
山古志災害ボランティアセンターへ挨拶に行き、まだ仮設住宅に住んでおられる方にショートケーキを贈ることの許可を貰い仮設住宅に向かった。
私は1人で明かりの付いている自宅を漏れなく回りショートケーキを贈って歩いた。
ある4人暮らしの家族の方に「貴方が最後のボランティアの方ですね。」と言われた。
前方数メートルしかわからないほど暗くなった頃、仮設の前の一段下がった畑で誰か私を呼んでいるような気がした。
近づいて見ると畑の土と、似た色の服を着たおばあさんがうずくまっていた。
私は1人で起こそうとしたが無理と思いボランティアセンターに行き連絡しようとした。
ちょうどお巡りさんに出合い事情を話した。
おばあさんは転んで立てなくなっており、体は冷えきっていた。
集った何人かでおばあさんが住んでいる仮設住宅の中に運び、そしてこたつで休ませた。
仮設住宅には約600世帯中20世帯余り残っておられた。
気がつくと外はもう真っ暗だった。
山古志災害ボランティアセンターに戻り、私が2年前に贈ったイルミネーションの明かりの下で番犬「ムクちゃん」と最後の記念写真を撮り長岡市山古志災害ボランティアセンターに“さよなら”をした。
人生録 H.19.12.8
今夜はショートケーキを贈る活動のため新潟へ向かう日であった。
土曜日であったが予約の弁当が多く朝5時に起きて弁当の仕込み、夜も忘年会のお客で満員であった。
お客様の了解をいただいて22時過ぎに店を終わりにし、23時半頃新潟県柏崎市と山古志の被災地の方々へ贈るショートケーキ2500個を車に積んで1人で目的地に向かった。
途中2回の給油時に約15分ずつの仮眠をとった。
人生録 H19.12.7
ショートケーキを贈る活動は、今年で30年目であった。
最初の訪問先は雲南市立加茂幼児園での234名の活動であった。
今まで着ていたサンタクロースの衣装は数年着ているため縫い目等が悪くなってきた。
今年は思い切ってアメリカ製の衣装を買うことにした。
直輸入価格で5万円弱と気張った新品の衣装を着て初登場する時、何ともいえないサンタクロースの気分、園児たちと歌を歌っているとき身動きも出来ないほど集ってきた。
これこそ最高の気分!この日の後の訪問場所は雲南市立斐伊幼稚園と保育所に行った。
保育所では私の次女(かおり)の孫(季奈)が入所しており、サンタクロース姿がお爺さんとは知らず、怖くて先生に抱かれて泣きべそをかいていた。
人生録 H19.10.22
今年7月16日おきた中越沖地震の被災地新潟県柏崎市の市役所を訪れた。
柏崎復興支援室の政金係長に会い被害状況等の話を聞いた。
約2450人の方々が被災されたと聞き驚いた。
私は政金係長に今年12月9日に応急仮設住宅の方全員にショートケーキを贈ることを約束した。
新潟県長岡市の山古志応急仮設住宅に数世帯残って生活をしている方がいるとの情報が入り、そちらへもお邪魔することにした。
人生録 H16.12.11
新潟県長岡市の市役所前に10時に到着予定だったが、富山県富山市付近での大雪のため30分遅れての到着となった。
出発から約11時間30分経過していた。
長岡市の山古志村仮役場に行き、川上産業課長に挨拶をし、お茶を飲むのもそこそこに、避難所に向かった。配るショートケーキはどこへ行っても喜んで貰えた。
最後の8箇所目に到着した時には予定時間よりも1時間30分もずれ、17時を回っていた。
あたりはもう暗かった。
18時にはすべて贈り届けた。昼ごはんを食べずにいたので、お腹の空いていることに始めて気がついた。10日の6時から店の仕事をしてこちらに向い、36時間殆ど不眠不休状態ではあったが、皆の喜ぶ顔が何よりも嬉しかった。
次の年からは応急仮設住宅ができ、そちらへ2年間ショートケーキを贈った。
人生録 H16.12.10
私の家は増築の真最中だった。
家族はこの日、地元の幼稚園等へのショートケーキを贈ることは知っていたが、中越地震で被災した山古志の応急仮設住宅へショートケーキを贈ることは知らなかった。
夕方、約1700個のショートケーキを車に乗せ、店の仕事が終わった23時ごろ私は1人新潟へと向かった。
途中、高速道路のパーキングから長男(優)に連絡した。
人生録 H7.12.18
少し寒くはあったが天気は良かった。
長田区は道路がいたるところで不通となり何処へいっても渋滞だった。
応急の道路工事により毎日のように変わる道路事情。
ショートケーキの輸送は困窮をきわめた。
それを知ったケーキ業者さんの心遣いで集配場所の近くまで運んでもらい助かった。
事前に園児や職員に知らせてあり、皆さん心待ちにしていた。
園児と歌を歌ったり、遊戯をしてすごした。
園を後にする時、涙がでるのを必死でこらえる場面もあった。
次の年からは、毎年長田区の仮設住宅へお邪魔するようになった。
現地の大学生や地元島根のボランティアの方々にお世話になりながら、仮設住宅がなくなるまでの5年間ショートケーキを贈り続けた。
人生録 H7.11
阪神淡路大震災の被災地へもショートケーキを贈ることにした。
長男(優、当時大学生)に同級生と一緒に神戸市長田区の調査を依頼した。
避難所へのボランティアは全国各地から支援の手が入っていた。
今、一番不安になっているのは子供たちだと思い、長男に長田区の全幼稚園数を把握してもらった。
幼稚園数12、園児1287名、教員数89名。
私と長男(優)、長女(さなえ)、次女(かおり)、そして私の話を耳にした雲南市(元木次町)の職員7名、大学生6名で長田区へ1376個のショートケーキと、長男と大学生が園児一人ひとりの名前を書いたクリスマスカードも一緒に贈ることにした。
人生録 H7.10.9
母は夏過ぎから体調を崩し老人ホームから病院に移った。
病名は胆ガン。
母の容態は徐々に悪くなっていった。
その日は、姉兄とその家族とで見舞いにいく予定にしていた。
私は仕事の都合で遅くなり、病室前で「お母さんの容態は少しよくなったので皆さんちょっと帰って来る。」との伝言を看護師から聞いた。
私は独り病室に入った。
母と2人になったのは何年ぶりだろうか。
母の目があいていたら顔をジーとは見ていられなかっただろう。
母の口元は私に何か言いたいような感じだった。
私も言いたいことがたくさんあった。が、取り付けてあった計器の数値が異常を示し、看護師が病室へ入ってきた。
看護師が慌てて医者をよんだ。
医師から身内を早く呼ぶように荒い口調で言われた。
姉兄へ連絡したが、つながらなかった。
母は私の目の前で生死をさ迷っていた。
私が病院に到着して、1時間もたっていなかった。
先生と看護師の「ご愁傷様でした。」の言葉。
私は知らない間に母の手を握っていた。
冷たいはずの母の手は私の汗と涙で温かく感じられた。
先生と看護師が病室を去ったあと、私は母とまた2人きりになった。
私は母の手を握り続けていた。
義援金で買ってくれた軍手、あの時私が温かく感じた軍手の様に感じて欲しいと願った。
人生録 H7.1.17
早朝5時過ぎ、神戸地方を震源とする大きな地震があった。
島根県でも大きな揺れを感じた。
地震の規模が報道され、時が経つにつれ被害は拡大していった。
当分の間、テレビ番組は阪神淡路の震災の報道一色であった。
被災された方々の避難所での生活も映しだされた。