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人生録 S49.4
育子(妻)と結婚。
最低の資金での結婚式だった。
洗濯、食器洗いは妻(育子)がやってくれるようになり助かった。
店の周りには官庁や工場などが出来つつあり、売り上げも少しずつ上向きになっていった。
私は“おかげ”と“恩返し”の言葉をわすれてはいなかった。
山陰豪雨被害に際し全国からの義援金で、母が軍手、兄(眞)がジャンパーを買ってくれたことに対して“恩返し”の時がきたと思った。
まずは小さいことからと思い地元の子供たちに、ショートケーキを贈ることにした。
人生録 S49.2
育子(妻)と見合い。
人生録 S48.7
島根県加茂町に帰郷。
反対を押し切って帰郷したことに対して兄(眞)夫婦や母に悪い気がしたが、店を出す場所を探す為中古のバイクを買い、毎日かけずりまわった。
手持ちの資金は56万円だけだった。
そんな中、ある地主さんから山60坪を30万円で売ってくれるという話があった。
当時私は27才の独身で、定職も無かったため銀行からの借り入れは難しかったが、私が一生懸命であることを兄(眞)夫婦に理解してもらい、保証人となってもらった。
その資金で60坪の土地を買い、その土地を担保に造成し、造成した土地を更に担保にして店建築と、厨房設備の資金に当てて小さな『若松家』ができた。
人生録 S47.8
居酒屋『近江屋』を辞め、堂島地下街の食堂『美加佐』に勤めはじめる。
人生録 S46.12.8
昼12時過ぎ、兄(眞)から「親父が危篤状態だから帰って来い。」と電話が入った。
あくる日、父の住んでいる家に着いたがすでに父は亡くなっていた。
これまでのことを思うと私は、涙も出なかった。
人生録 S45.9
愛知県の業務用厨房機器(現ホシザキ電機㈱)を退社。
引っ越す途中、名神高速道路を走っていると、会社での生活が次々と思い起こされ涙が止まらなかった。
大阪旭区の居酒屋『近江屋』に見習いとしてお世話になりはじめた。
人生録 S42.4
愛知県の業務用厨房機器(現ホシザキ電機㈱)に入社。
機械課型治工係に配属になった。
現場で見る機械は始めてのものばかりで、私は仕事を覚える為、機械製工の通信教育を受けると共に、頑張って夜間学校にも通った。
勉強の成果は少しずつ出てきた。
現場作業から現場設計(金型設計)に配属され、その後、製造部長(現社長)から直々に製品設計の命令を頂いた。
任された製品設計は試作製品の完成まで一人でやることになっていた。
徹夜残業はもとより休日の出勤と大忙しの日々だった。
そして、試作品の完成。
色々な方々から知識を学び、独学で勉強し完成した設計図面や試作品をみて、昔の自分からは想像もつかないできだった。(実用新案特許取得。)
私は自分の本当の力を故郷の島根で試してみたかった。
そして成功したら、学校時代に困った時助けていただいた方々や豪雨被害にあった時お世話になった方々にお返しをしようと思った。
そして、「島根に帰って事業をやろう。」と決意した。
製造部長(現社長)をはじめお世話になった方々には申し訳なかったが、私の意志は固かった。
島根に帰ってからは飲食店をやろうと決め、まず大阪の飲食店で見習いに入ることにした。
人生録 S42.3
島根県立大東高等学校普通科を卒業。
嬉しかった。
山陰豪雨被害後、家からは1円のお金を貰うことなく無事に卒業できた。
就職する日、出発駅で見送ってくれる友人は無く、少し寂しくはあったが希望に燃えていた。
人生録 S41.7
高校3年の夏、愛知県の業務用厨房機器(現ホシザキ電機㈱)に就職が決まった。
人生録 S39.12
全国からの義援金が町役場を通して被災者家族に渡された。
私の家では生活費に使うお金になった。
そして高校1年の冬休み前、母は軍手、兄(眞)はジャンパーを買ってくれた。
これで冬の寒さや、冷たさがしのげると思うと「高校も卒業できるぞ。」と言う気持ちが一層強くなった。
人生録 S39.7.18
その日は朝から大雨だった。
雨は午後になっても止まず、夕方には汽車も不通になるほど降り続き、日付が変わる頃から更に激しさを増し、バケツをひっくりかえしたかのように降った。
夜半に「赤川が決壊したぞ。」と消防団の声がしてから数分後、バリバリと木の裂ける音と共にズドンと言う地響きがした。
音がした方へ乾電池ライトを向けると、私の家は斜めに傾いていた。
家族は全員外にいたため助かった。夜が明けると赤川は氾濫し、山はいたるところで崩れており無残な姿をさらしていた。
数日後、死者、行方不明者などが多数でた大きな災害であったと聞いた。
町役場の係の人から私の家は全壊していると言われ、家には入れず近所の離れ間を借りて寝起きした。
炊き出しの食事が数日間続いた。全国からの支援物資が届き、自衛隊や大勢の方々の援助を受けた。
そんなこともあって母は「お金がない。」が口癖だった。
ある時、母が兄(眞)に「憲(私)、学校辞めさせるか。」と言い、兄(眞)が「せっかく行きとるのに。」とのやりとりをしているのを聞いた。
その会話を聞いたとき、私はこれ以上学校に通うのは無理だと思った。
夏休みも半分過ぎた頃から土木作業のアルバイトを始めた。
アルバイトをしながら“お金が貰えれば学校に通える”と思いながら励んだ。
私は夏休み、冬休み、祝祭日等を利用してアルバイトをすることにした。
時には試験の最中の休みでもアルバイトをした。
学費として最低でも1500円を稼がなければならなかった。
しかし、全日制の学校ではアルバイトをする為には学校の許可が必要だった。
事情を学級担任に話し許可を得た。
その上、島根県から山陰豪雨被災者には授業料免除の制度の話もあり、学費900円を納めれば学校にも通えるようになった。